ウェビナー #29 : 共依存‐不思議な人間関係
知らずの内に私たちの成長を阻んでいる共依存について、講師の宇山護が話します
「共依存―不思議な人間関係」
今回のテーマは共依存についてです。
あまり聞きなれない言葉だと思いますが今回のテーマである共依存の内容は依存症でなくても共依存症でなくてもみなさんの人生、信仰生活にもお役に立てる内容だと思います。
共依存が研究される、きっかけとなる出来事があります。共依存を理解するのにわかりやすいと思いますのでその辺から始めたいと思います。
1930年代にアルコール依存症は病気とみなされていました。しかも不治の病とされ当時の医師や精神科医などの専門家の人達を悩ましていました。お手上げ状態だったわけです。
そんな状況の中1940年にAA(アルコホリック アノニマウス)というアルコール依存症のための自助グループが活動を始めます。するとこのAAという自助グループは独自の方法で確実に成果を上げていき当時の専門家達を驚かせました。
ところが家族から隔離され同じアルコール依存症の仲間同士と交流することで克服でき、もう大丈夫ですと太鼓判を押され家族の元に戻ると再びアルコールを飲み始め再発するという現象が起こりました。
そこでどうやら克服するのに家族が妨げとなっているのではという認識から研究が進められたのが共依存症です。
一言でいうと依存症の人に依存してしまい実は依存症の人に手を貸してしまっているという事なのです。
そのような人を英語でイネイブラーと言います。後押しをする人という意味です。
アルコール依存症の夫を持つと家の中で物を壊したり妻に暴力を振るったり、消費者金融から借金を作ったりあちこちで迷惑や問題を起こします。
殴られても耐え忍び借金の返済や迷惑かけた人への謝罪などの尻拭いをします。
疑問に思われるでしょう。一体どこが悪いの?
申し分のない奥さんじゃないの,女性の鏡じゃないか、と思われると思います。
では何が問題なのでしょうか。
共依存症とは依存症者を献身的に自分を犠牲にしてまでも必要以上に面倒を見たり世話をやく事に依存してしまう事なのです。
イネイブラー後押しする人間になるとは依存症の人が克服できないどころかその人が依存症を続けることを後押しして助けてしまっている事が問題なのです。
もう一つの問題点は当の本人に自覚がないと言うことなのです。
なぜかというと行為自体は善だからです。
酒飲みのダメな夫とそんな夫を一生懸命支える妻。他人の目には悪い夫と善良な妻という形に写ります。
自分を犠牲にし献身的にダメな夫を支え尽く姿は畑から見ると聖女のように見えます。
特に日本には昔から美徳とされる文化的背景があります。
みなさんは素朴な疑問を持たれると思います。
借金の返済、迷惑かけた人に謝罪してまわる、
暴力を受けてもじっと我慢。
そんな男、早く別れたらいいだろうと思われると思います。ところが当の本人はどう思っているかというと「私がいなかったらこの人は生きていけないんです」「私がいないとこの人は何もできないいんです」と自分を顧みず尽くします。ではなぜ離れるどころかしっかりと共存してしまうのか?
共依存する人の内面に触れたいと思います。
なぜ苦痛や辛い思いをしてまでも犠牲的に必要以上に献身的に尽くすのか?
尽くし支える事によって自分の存在価値や生きがいを見出せる事ができるからです。ところがこの事には問題があります。それはその人の依存症が回復しては困ると言うことです。回復してしまったら自分自身の存在価値や生きがいを失う事になってしまうからです。共依存を英語でCo-Dependencyいいます。共に依存し合うという意味です。共依存とは一緒に依存し合う事です。まさに持ちつ持たれつな人間関係なのです。
次に承認欲求や自己顕示欲が満たされます。
ダメな夫を一生懸命、忍耐強く支える姿は周りの人達や隣、近所の人達の評判になります。自然と承認欲求や自己顕示欲を満たしてくれます。支える側の人間の事を後押しする人イネイブラーと呼ぶと言いました。イネイブラーと言われる人は善人が多いです。責任感が強く優しさに溢れています。困っている人をほって置けない人なのですが結果的に相手の責任感や能力、主体性を奪いその人を無力化してしまっているのです。愛情という名目で相手をコントロールしてしまっているのです。そのことから得られる快感や満足感、生きがいが共依存にしてしまっているのです。
一般的に共依存というとアルコール依存症やギャンブル依存症が引き合いに出されますが実は身近によく見られる事なのです。
いくつか例をあげたいと思います。
まずは親子の場合です。
お子さんが責任を持ってやるべき事を母親が先回りしてやってしまうとお子さんは自ら責任を負う事ができなくなってしまいます。
うちの子はまだ幼いから早すぎるから危ないからなどの理由でお子さんが手を伸ばして自分の手で取ろうとしているのに先回りしてお母さんが取り上げお子さんに渡すとかボタンをかける時、靴を履こうとしている時、ハサミを使おうとした時お母さんが全てやってあげます。
よくあるケースは脱ぎ捨てられた靴下、散らかってる部屋をいつも母親が靴下を拾い部屋の片付けをすると当たり前になってしまいます。
結婚しても同じです。靴下の脱ぎ捨て部屋の片付け結局、奥さんが母親代わりになっているのです。当然ありがとうの言葉も感謝の言葉もありません。
このように必要以上に子供をカバったり行動を制限してしまうとお母さんがいないとその子は自分では何もできなくなり心身の自立を妨げてしまいます。子供の方もお母さんがいないと何もできない自主性や責任感のない人間になってしまいます。
では職場ではどうでしょうか?
例えばこんな例です。
いつまでも独り立ちできない部下と頼られたい上司との関係です。上司から何か指示してもらわないと何もできません。自分一人では不安で何もできません。でも上司から直接、来る命令や指図だと安心できるわけです上司の願いに答えたい好意に応えたいと上司に依存する部下と頼られ期待される事に自分の存在価値が満たされる上司との関係です。
お互いのニーズがマッチして共依存の関係が成立します。そして同じように部下が成長し自立する事を妨げてしまい上司からすれば部下に自立して成長してほしくないということになります。
それでは夫婦の場合はどうでしょうか?
自分を犠牲にして夫に尽くす妻と尽くしてくれる妻に依存している夫です。
特に夫が弱い立場、問題を抱えている場合です。例えば精神的に弱い責任感がない精神的な欠陥を持っている肉体的な欠陥を持っている重い病気を抱えている、あるいは何らかの依存症を抱えている場合です。
このような夫を献身的に尽くすことを通して弱い立場の夫をコントロールする事によって自己満足感と優越感が得られるわけです。
他に例を挙げれば不良な子を持つ親との関係。障害児を持つ親との関係。牧師と信者。落ちこぼれ生徒と先生。不良学生と先生。患者と看護師。患者と医師。カウンセラーとカウンセリングを受ける人。ホストとお客、ホステスとお客との関係など身近に溢れています。
このように共依存は人と人との関わり合いですので、ありとあらゆる人間関係に該当すると言えます。
それでは、一体何が原因でそうなってしまうのかについて説明したいと思います。
その前に実は共依存になりやすいのは圧倒的に女性が多いのです。なぜかというと女性の性相は相対的です。女性は他人に依存しやすいところがあります。他人への愛情や他人に頼ろうとします。このことは女性にとって生きていく為の防衛本能なのです。他人に寄り添うことが自分を守り安全で安心できるからです。
それでは一体、何が原因で共依存になってしまうのかについて説明したいと思います。
今回の共依存について調べてみて面白いと思ったことは依存症の人と共依存の人の原因は同じだという事です。
一言で言えば自己愛の欠如です。自己愛とは自分を愛する心、自分を信頼し許す心です。
自分自身の中に欠けているものがあれば自分以外の外部のもので穴埋めをするようになります。例えば不安感、孤独感、恐怖感、罪悪感などの感情を一時的でも何らかで穴埋めしようとします。
それが人によってはお酒や甘い食べ物であったりギャンブルであったりネットショッピングとかポルノやSNSなどであるわけです。
共依存が特殊なところは対象が人間であり人間関係にあるという事です。
ではなぜ自己愛が欠けた人間になってしまったのか?
一概には言えませんが、ほとんどの心理学者や精神科医が言うには子供の頃の家庭環境に原因があると言っています。
最近、アメリカ人の友人が本人の半生を本にしました。
彼が私にその本をプレゼントしてくれたので早速、読んでみました。彼のお父さんはとても厳しい人で彼が何か悪いことをしたり規則を破ったり守らないとズボンのベルトで叩いたそうです。私は彼にその頃どんな気持ちでいたのか聞いてみました。彼がいうにはただ我慢して従順で素直ないい子を装っていた。反抗しようものならボコボコにされるのがわかるので、我慢と従順が唯一生きる術であったわけです。
ここで大事なことは子供にとってお父さん、お母さんは世界一の存在なのです。どんなお父さんでも子供にとっては英雄なのです。
純粋にそう信じている親から溢れるような愛情を受けるべきなのに受けられなかったり受けられないどころか殴られ叱られたというと子供達の心の中にネガティブな感情が植え付けられてしまいます。子供の心理は全て自分を中心にとらえます。お父さんが僕を殴るのは僕が悪い子だから、お母さんが私を叱るのは私がダメな子だから僕が悪い子だから愛して貰えないのだととらえ、どうなるかというと普通の人のように考える事ができなくなります。その人にとっての常識は常識ではなく歪められたものとなってしまうのです。
例えば私の友人にとっては我慢して従順である事が善であり正しい事になってしまったのです。逆に反抗して逆らうことが悪であり間違った事になってしまったのです。
例えば暴力を振るう夫がいたとします。
普通だったら我慢せずに逃げるとか助けを求めます。でも我慢がその人にとって正しいという歪んだ思い込みがあると反抗したり逃げるとか助けを求めるとかせずに我慢し続けるようになってしまいます。
夫がこっそりポルノを見ている事に気がついているのにあえて黙認するのも同じ事が言えます。反対したり責めたりせずただ見て見ぬふりがその人にとっては正しいことになっているのです。話はそれますがセックスに関しても同じ事が言えます。堕落以後、血統、家系、家族を通して歪んだものになってしまったのです。最も美しく聖なるものが最も汚れた恥ずかしいものになってしまったのです。
依存症や共依存を克服する上での鍵は歪んだ思い込みを正常な形に変えていく事です。同時に自己愛を少しずつでいいです。満たしていく事です。誰か信頼できる人がいればその人に少しずつ小出しでいいです心を開いて心の奥にあるものを話していったらいいと思います。
先ほど話したようにほとんどの共依存症のほとんどの人が献身的で優しい性格なので問題が見えにくく気付きにくいという点があります。そこでいくつか要注意点をあげますから思い当たる節があれば要注意ですとなるのですが問題は必要以上に強いとなると問題であるということです。
*自分の気持ちを押し殺して犠牲になっている。簡単な例をあげると例えば夫が何何しようどこそこに行こう何何を買おうなどに対して、本人としては嫌であってもやりたくなくても自分の意見を殺して夫のなすがままにしてしまう。
*困った人を助けないと罪悪感を感じる。
*必要以上に他人の面倒を見たがる。世話好きである。
*他人から好かれたい。認めてもらいたい。
必要とされたい。受け入れてもらいたいという気持ちが必要以上に強い。本来、子供は親に褒められ賛美され、励まされ、大切にされ愛されて育つべきなのに褒められなかった、励まされなかった、大切にされなかった、愛されなかったとなるとどうしても自分自身に自信が持てません認めることができませんから自然と自分以外の他人や外に頼る生き方になってしまいます。
*完璧な自分でなければならないといけないと思っている。少しの間違いも許す事ができません。人間は間違いを犯すもの弱いんだというふうに考えられません。
*自分の価値を低く見る。子供の頃に本来持っているその子の価値を親に認めてもらう事により自信とか自分の価値を信じられるようになります。ところが親から自分の持っている価値を認めてもらえずに育つとどうしても自分の価値を信じることができません自信を持つことができ無いのでどうしても自分を低く見てしまいます。自分には価値が無いと思い込んでしまいます。
*相手をコントロールしたがる。ということは自分自身をコントロールできないということでもあります。不安や恐れがあるからです。他人から否定されたりすると不安や恥ずかしさ惨めさといった感情を自分自身でコントロールできないので自分自身を守ろうとして他人をコントロールしようとします。
*現実を直視できない。現実を直視できないとは言葉を変えれば現実逃避となります。
今お話しした自分をコントロールできないと例えば仕事中であるとか勉強中なのに自制心がないとやるべきことが明確であるのだけれども集中できず欲求や欲望に負けてしまいやるべきことを後回しにしネットサーフィンなどをはじめ現実から逃げてしまいます。
何でも完璧でなければならないという人は間違いがあってはならない計画や目標もやり遂げなければならないという思いの強い人で人間誰でも間違いは犯すものとか人間は弱いものなのだという現実的な見方ができません。
*何かに頼ろうとしないか頼らずにいられない。
親が先回りして何でもやってあげたり与えた結果、人に頼る事ができなくなってしまうか逆に他人に頼ってばかりになってしまいます。
*コミュニケーションが苦手。コミュニケーションが苦手というのは言われた事や指図された事には忠実に真面目にこなせるのですが自分から意見するとか自分の考えをいう事ができないという事です。
*他人との境界線が曖昧なので断る事ができません。NOが言えません。本来、小さい子供達は親に守られいつも側にいてくれることに安心と安全を抱くことができるようになります。ところが誰からも守って貰えなかったり誰も側にいてくれなかったとなると人間関係の境界線が曖昧になってしまいます。
ついでに付け加えると甘やかされて育てられたこ子と厳しく育てられた子と比較すると一概には言えませんが厳しく育てられた子の方がしっかりとています。現在、活躍している二世たちから話を聞くとほとんどが厳しく育てられています。なぜかというと厳しく育てるとは境界線をしっかりと引いてあげるからです。善と悪、やっていい事やってはいけない事などを明確にしてあげるからです。逆に甘やかせて育つと境界線が曖昧になってしまいます。
そうすると、ちょうど無防備状態のような状態ですから他人からの侵入を容易なものにしてしまいます。それに対して抵抗する術がなく全て受け入れてしまい断ることができません。
自分自身に赴きを置くのではなく他人に赴きを置くので嫌われたくない悪い人間に思われたくない自己中心だと思われたくないという気持ちが優先するからです。
以上を参考にしていただいたらいいのですが誰もが持っている感情です。判断が難しいところです。
ではどうしたらいいのでしょうか?
3つほどお話したいと思います、
まずは感情をため込んだり抑え込んだり、一度に爆発させたりするのでなく先ほどお話ししたように小出しでいいですから少しずつ信頼できる人がいれば自分の内面を正直に話す事です。
なぜかというと心の穴を埋めようとして自分以外の外部のものに求めたように心の傷を癒すとか心の穴を埋める場合も自分以外の外部からの力を借りないといけません。
自分だけでは不可能です。ちょうど重い心臓の病を持っていたなら心臓外科の医師に手術をしてもらわねばなりません。
心に深いトラウマを持っているならセラピストやカウンセラーらの外部からの力が必要です。
ここに人につながることの大切な意味があるのです。
次に他人との適切な境界線を引く事です。
このことははっきりと断るNOと言えるようになる事です。
この事で必ずネックになるのが悪者にみられたくない自分中心な人間だと思われたくないという不安と恐怖心です。
みなさんに知ってほしい事は境界線が引けてはっきりとNOと言えるようになるとメリットの方が遥かに大きいのです。
仕事の面では無理無駄な仕事を断る事によりやりたい質の高い仕事ができるようになるとか人間関係に巻き込まれなくなることによって仕事に集中できるようになります。当然、実績、業績にいい影響を与えます。夫婦の関係では相手任せとか頼ってばかりだったことが本人の責任で積極的に取り組む事により信頼が生まれようになります。
これらのこと以上にもっと大きなメリットは境界線がしっかりと引かれると国と国との国境があることで国が守られ国民が安心して生活できるように境界線がしっかりひけると自分自身を自分で守る事によって安心と安らぎを得る事ができる事です。
二世の女の子を例にあげます。中学生、高校生になるとこの世の男の子から交際を申し込まれます。最初は断るのですが、境界線が弱いと外部からの侵入を簡単に許してしまいます。ずるずると恋愛感情へ発展してしまいます。おまけに親には口が裂けても言う事ができません。必ず秘密にします。境界線がしっかり引けていれば自分で自分を守る事ができるのです。
これは女の子に限らず男の子にも言えます。交際を申し込まれる事、以上に多いのがアダルトビデオを友達から見せられたり偶然見てしまったりした時です。
境界線が弱いと簡単にポルノに負けてしまいます。ポルノじゃなきゃいい。一線さえ越えなければいいという曖昧な考えになってしまいます。
次に自分を許し愛するようになることです。このことが一番の鍵になると思います。しかし、それこそ「言うは易く行うはかたし」です。このことは共依存の人だけでなく依存症の人も同じです。失敗してもいいのです。間違っても構わないのです。負けてもいいのです。恥をかいてもいいのです。嫌われてもいいのです。挫折してもいいのです。このような体験から新しい自分が発見できます。本来の自分を見つけることができるのです。
よくポルノを見てしまうと罪悪感で自分自身を責めます。
「天のご父母様、またポルノを見てしまいました。自慰行為をしてしまいました。私は何という罪人でしょう。どうぞ罪深いこの者をお許しください。」と自分自身を責めます。
悔い改めることは大切です。しかし罪悪感と罪意識でいつまでも思い煩っていては返って妨げになってしまいます。
みなさん、罪悪感と恥の思いで思い煩う姿を見て喜ぶのは誰だと思いますか?
情欲と戦う姿を見て喜ぶのは誰だと思いますか?サタンです。私たちが本来、闘って勝利すべきことはもっと崇高な目的のためであるべきではないでしょうか。サタンにぼかされてしまっているのです。例えばプロレスで言えば場外乱闘のようなものです。戦うべき場所を間違えています。戦争で言えば味方同士で内輪揉めするとか仲間同士で喧嘩をしているような者です。戦うべき敵を間違えています。本末転倒です。戦って勝利すべき敵は他にいるのです。
自分の過ちや罪でいつまでも悩んでも埒が上がりません。それこそサタンの思うつぼです。私たちが本来、戦うべき事はいかに素晴らしい人間になるか、いかにして神様が喜ばれる家庭を築くか、いかにして天一国を築く者になれるか天恩宮に入宮するにふさわしい者なるかではないでしょうか?
私たちに求められる理想は高くハードルが高いです。真実に生きることはたやくありません。決して簡単ではありません。なぜならば自分自身の弱さや堕落性と正面から戦っていかなければならないからです。
おまけに私たちの心の中には完璧で潔癖な裁判官がいて常に正しく生きなければならない真実に生きなければならないと審判してきます。では実際、絵に描いたような完璧な人生を送れたのか?とんでもないです、正しく生きよう真実に生きようとすればするほど苦しくなるし罪の中に埋もれてしまうものです。心の中の裁判官がお前は罪人だ有罪だと牢獄に放り込むようなものです。自分で首を締めているようなものです。これでは自分を愛し許すどころか自分自身を忌み嫌ってしまいます。
自分自身を責める事は実のところ神様との関係に壁を作ってしまっているのです。
神様を遠い存在にしてしまっているのです。
以前のウエビナーで「人生の地図を描く」の中でお話ししましたが地図が正確でなければ自分は今どこにいるのか、どこに行きたいのかわからず道に迷ってしまいます。
正しい地図を描くには現実を正確に正しく
把握し認識することが大切です。
現在、私たちを取り巻く環境は劇的に急速に変化し続けています。この世の中だけではありません私たちの教会にも言える事です。かつて経験した事のない事ではないでしょうか?
ところが私たちは今だに古い地図を後生大事に使っています。なぜでしょうか?
それは固定観念と先入観です。
実績のある人や成功体験のある人ほど強いと言われます。失敗や間違うことへの不安や恐怖心が優先してしまい固定観念、先入観に縛られ変わる事ができません。固定観念が強いと未来がありません。
なぜなら過去に執着しているからです。
正しい地図を描くために現実の私自身を理解し認識することです。それはどうゆう事かというと良い面だけでなく悪い面、嫌いな面、触れたくない面、全て受け入れるという事です。
考えてみてください、みなさんの友達という人が完璧な人間だったら友達にはなっていなかったんじゃないでしょうかむしろ距離をおいて避けるのではないでしょうか?
男性のみなさん奥さんがそれこそ聖女のような人だったら、返って一緒にいるのが窮屈で苦しいかもしれません。それこそセックスどころか触ることさえできないかもしれません。本部教会の偉い人が来ても、ありがたいですが緊張するだけでリラックスできないのではないですか?それより気の合うもの同士で気さくに話し時間を過ごす方が楽しいのではないでしょうか?
自分自身に関しても同じことが言えます、欠点や短所などがあった方が親しみやすいと思うのですが、どう思われますか?
そうしたら自分自身と気軽に付き合え愛し許せるのではないでしょうか?
なぜ聖パウロの手紙は読む者の心を打つのでしょうか?自分の弱さや罪を包みみ隠さず正直に書いてあるからではないでしょうか?
最近ある兄弟だ、お母様に人格完成はどのようにしたらできますかと質問をしたそうです。それの対してのお母様の答えは曾孫のジョンアー様を例に挙げられ子供のようになることだと単純明快に答えられたそうです。
私たちは人格完成を深く深刻に考えすぎてしまい遠い彼方の見果てぬ夢のようなものにしてしまっているのではないでしょうか?
完全な人間にならなくていいのです。
お母様は人格完成しなさいとはおしゃいません
ただPure Waterになりなさいとだけおっしゃっておられます。
地上生活のメリットは失敗が許されやり直しができるという事です。
何度も失敗や過ちを繰り返しながらいつの日か一点の影もなく一点の汚点もなく一点の淀みもなく裏も表もなく胸を張って正々堂々と生きれる人間になりたいと私は願っています。他人が見ていなくとも認めてくれなくても真実に生きるインテグリティーな人間になれれば自ずと私たちの霊人体も人格も育まれるものです。
今回、共依存についてお話ししました。
共依存について準備しながら気がついた事があります。それはサタンこそが共依存者であるという事です。
サタンがサタンとしてサタンらしく存在できるのは人間あってのことです。
ではどんな人間であってほしいのでしょうか?サタンが喜ぶような人間です。
サタンも神様と共通点があります。
それはサタンも神様も肉身が無いということです。肉身を持つ人間を通してしか喜びを得ることはできないのはサタンも同じです。
だからサタンはフリーセックス、LGBT、ポルノ、マスターベーション大歓迎なのです。私たちが情欲の思いや罪悪感で苦しんでほしいのです。サタンにとって私たちが神様に帰ってほしくないのです。神の子になってほしくないのです。そうなるとサタンとしての価値がなくなってしまうからです。
サタンは共依存だというのは突飛な考えですが納得できるのではないでしょうか?サタンという目には見えない共依存者が私たちの背後で私たちをコントロールしているんだと気づいたら、この先どのように生きるべきか、どのように戦って行ったらいいのか、どのような努力をしていくべきかを今日お話しした内容をただ単に共依存に関する事としてだけでなく今お話しした観点で考えていただけたら幸いです。
サタンがあなたに依存しているというと後味が悪いと思いますので最後に神様は伴走者というお話をして終わりたいと思います。
パラリンピックがパリオリンピックの後に行われましたが競技の一つにブラインドマラソンがあります。目の不自由な人たちのマラソン競技です。一人では走れませんから必ず一緒に走ってくれる伴走者がいます。障害物を避けながら道案内をしながら一緒に走ります。
その時、絆と呼ばれる50センチのロープをお互いが握りながら走ります。
私はその姿を見てとても感動しました。
これは私たちと神様との関係も同じだと思ったからです。
私たちは例え目が見えていたとしても実は盲目なのです。道に迷うことの多い私たちなのです。私たちと神様は絆と呼ばれる50センチの命のロープで結ばれているんだと信じてください。そしていつまでもしっかりと離さずに握り続けてください。必ず神様が皆さんを目的地まで導いてくださいます。
どうも、ご静聴ありがとうございました。