ウェビナー #32 : 共鳴する祈り
祈祷は「神様との会話」と言われますが、時に一方通行のように感じてしまうことも多いのではないでしょうか。どのような心情や姿勢で祈るべきなのか、神様の心情と共鳴する祈りが性の誠実さにどのように影響を与えるのか、講師の宇山護が話します。
「共鳴する祈り」
今回のテーマは祈りです。特に共鳴する祈りについてです。なぜ祈りなのかハイヌーンと関係ないと思われるでしょうが、実は大いに関係があります。性に関する事は肉的で生々しい事ですが実に霊的で情的なものなのです。なぜかというと、さかのぼると霊的堕落にたどりつくからです。
ですから目に見えない霊的精誠、特に真剣で真実な祈り無くして正午定着は不可能です。
共鳴する祈りについてお話しする前に祈祷についてお話ししたいと思います。
以前、礼拝の場で兄弟姉妹にお祈りが好きですか?と聞いたところ半分以上が好きだと答えました。なるほど礼拝の場だと、みなさんアベル的な答えをするものだなと思いました。普通、本音を聞くと。ほとんどの人が嫌いと答えます。嫌いというより祈れないとか祈るのが難しいと言った方が正解かもしれません。
理由の一つが神様は答えてくれない。ということです。よく祈祷は神様との会話だと言われますがいつも一方通行でしかありません。
例えばお子さんが学校から帰ってきてお母さんに今日あったことを話そうとします。でもお母さんは今忙しいからと言って聞いてくれません。するとお父さんが仕事から帰ってきました。お父さんに話そうとしたら、疲れているから後にしてくれと言い聞いてくれません。
お子さんはどんな気持ちになるでしょうか?
もう2度と話すもんか。となると思います。
たとえとしては、ふさわしくないと思うのですが気持ちとしては同じではないでしょうか。
心では祈りが嫌いでも、よく祈れなくても私たちは毎日祈っています。なぜかというと祈りが大切であることをよく知っているからではないでしょうか。
お父様のみ言葉です。
「あなた方の毎日の生活、人生の中で最も大切かつ必要なものは何かというと、それは祈祷生活です」
祈りは人間がなす最高の業であると言います。
動物は人間と同じように飲み食いします。セックスもします。でも動物が祈るのを見たことありません。むしろ人間の方がキツネや猿を祀って拝む対象にしています。
皆さん人間が最も美しい時はどんな時だと思いますか?それは真剣に祈っている姿だと私は思います。なぜかというと祈っている時にその人には淀みがなく、その人の真実な姿が現れるからです。
天心苑特別祈祷会で涙ながらに祈る二世達の姿を見て心が洗われる思いになるのは私だけではないと思います。
次に祈りの目的についてお話ししたいと思います。まずは神様との関係を復帰する為です。
先ほど祈ることが嫌いな理由として神様からの答えがないからと言いましたが。
これもお父様のみ言葉です。
「もし堕落がなければ私たちに祈祷は必要なかったのです。祈祷しなければいけないのは堕落による不幸な贈り物であるという事を理解しなければいけません」
神様は祈りに答えたいのです。でも堕落ゆえに答えられないのです。本来、神様と人間との関係は親子関係です。この親子の関係を最初に壊したのは神様でしょうか?人間でしょうか?人間です。ですから人間の方から神様に祈り語りかけ本来の親子関係を復帰しなければならないのです。
宗教を英語でReligionと言います。元々はラテン語のReligioが語源です。再びとかもう一度という意味のReと繋がるとか一つになるという意味のLigioの二つの言葉が合わさったものです。
つまり神と人間が再び一つになるという意味です。人類が再び神に帰り一つになるという意味です。
全ての宗教の目的がこの事にあります。
ですから全ての宗教にとって祈りは最も神聖なる行事なのです。
皆さん初めて祈った時があると思います。
困った時の神だのみとか初詣とかでなく神様は生きておられる私の親であると知り初めて天のお父様、天の父母様と祈ったその瞬間こそ私たちが神様に帰った瞬間なのです。そして神様もその瞬間を待っておられるのです。
次の目的は詩篇51:10−11に
「神よ私のために清い心を作り私のうちに新しい正しい霊を与えてください。私を御前から捨てないでください。あなたの聖なる霊を私から取らないでください」と書かれてあるように心霊を育むためです。同時にサタンを分別できるようになるためでもあります。
現実社会に生きる私たちは現実的なこと肉的なことを優先しがちで霊的なことを忘れがちになりますが私たちの心霊は肉身以上に霊の糧を渇望していることを知らないといけません。肉身は有限ですが心霊は無限です。霊界に行ってから心霊を育てようというわけには行きません。私たちは酸素を吸って生きているように祈りは霊的な呼吸です。私たちの心霊は神様の愛を呼吸しながら成長し続けるのです。ちょうどお腹の胎児が臍の緒で繋がっているように私たちと神様をつなぐ臍の緒が祈りなのです。まさに祈りは生命線、ライフラインといえます。
そして霊的感性を高める事によりサタン分別できるようになります。
お父様が「たくさん祈れば霊的に明るくなり善悪に対する分別と感性が鋭くなる」とおっしゃっておられるように祈りは邪心や情欲に打ち勝つ武器と言えます
なぜ私たちは祈るのか?次の理由は神様ご自身が私たちの祈りを聞きたいからです。
聖書にいくつかそのような聖句があります。
詩篇50:15
「悩みの日に私を呼びなさい。私はあなたを助けるであろう」
エレミア書33:3
「私に呼び求めよ。そうすれば私はあなたに答える」
イザヤ書65:24
「彼らが呼ばない先に私は答え彼らが語っている時に私は聞く」
マタイ7:11
「自分の子がパンを求めるのに石を与えるものがあろうか。魚を求めるのに蛇を与えるものがあろうか。このように、あなた方は悪いものであっても自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば天にいますあなた方の父はなおさら求めてくるものに良いものをくださらないであろうか」
今、何を悩んでいるのか?
どんな問題をかかえているのか?
何を解決したいのか?
何を克服したいのか?
神様は聞きたいのです。そして助けたいのです。
次に祈りの目的としてお話ししたいのは
み旨を推進させ成就するためです。お父様のみ言葉です。
「イエス様は何度も断食をしながら誰もいない寂しいところで、たった一人で徹夜祈祷されました。過去の多くの聖人、義人も使命を果たすために一生懸命、祈祷しました。彼らの祈祷生活なしには何もできなかったのです」
私の記憶にある二つの印象的な祈祷の証をしたいと思います。
お父様は1970年から1972年までの約3年間、特別祈祷をされました。1972年4月15日は金日成の60歳の誕生日でした。金日成はソウルで還暦の祝いをやろうとしました。これは何を意味するかというと金日成は1972年の冬に南に侵略するということです。漢江という川は真冬になると戦車も渡れるほどに凍ります。お父様はそのことを霊的に察しされ3年の間、外的には祝福夫人を開拓伝道に送りお父様は漢江が凍らないように命懸けで祈りました。その結果どうなったかというと歴史的な暖冬となり漢江の水は凍りませんでした。
もう一つの証は1971年にWACLという世界反共大会が日本で行われました。久保木会長はなんとしても成功したいと思いお父様に条件を立てたいのですがどんな条件を立てたらようでしょうか?と尋ねると。
「久保木、祈ったらいい」「どのように祈ったらよろしいでしょうか?」「深夜12時に40分祈ったらいい」「2時になったらもう一度40分祈りなさい」「そして4時にもう一度40分祈りなさい。これを40日間やりなさい」
久保木会長は40日間、不眠不休で過ごされ結果的には大勝利できたのですが、大会の勝利以上に思いもよらない形で祈りの成果が現れました。
お父様がアメリカに来られたのは1972年です。ところがワシントンD.C.の空港で入管審査に引っかかり入国できず急遽カナダのトロントに行かれました。興南での2年8ヶ月が理由でブラックリストに名前が載っていたからでした。お父様はトロントから久保木会長に電話しなんとかしてほしいと言うことで久保木会長はアメリカから反共大会に参加してくれたサーモンド上院議員を思いだし連絡するとあっという間に入国許可がおりました。なんとサーモンド議員は入管問題を扱う委員会の委員長だったのです。久保木会長の祈りでサーモンド上院議員との出会いがありそれ故にお父様がアメリカに入国できたわけです。
ということは久保木会長の祈りがなかったらヤンキー大会もワシントン大会もその後のアメリカの摂理もなったかもしれません。
次の祈る目的としてあげたいのは私の願いや成し遂げたいことを成就するためです。
お父様は「私は、祈りは最も力のあるものと信じています。不可能と思えることを可能にしてくれます」とおっしゃっておられます。
例えば聖アウグスティヌスは若い頃「私は肉欲に支配され荒れ狂い、全く欲望のままに生きていた」と告白しています。そんなアウグスティヌスのために祈り続けた母モニカの話は有名です。モニカは何年も長い間祈り続けました。アウグスティヌスは私が信仰を持つに至った影には母の涙の祈りがあったと有名な「告白」と言う本の中で何度も繰り返し書いています。
私の言う祈り続けるとは5年7年10年というレベルです。祈りが積み重なると山のようになり、それこそ山を動かせるようになります。
例えばポルノを辞めたいとします。真剣に涙の祈りをし続けると何年か後になんらかのきっかけや出会いや不思議な体験をします。そこから克服への道が開かれていくようになります。
神様という方は真剣に涙して祈った祈りや涙を決して忘れない方です。
祈りの目的として最後にお話ししたいことは
「答えを得るため」です。信仰には疑問がつきものです。なんでもかんでも、そのまま信じますとはいきません。さまざまな疑問が生じるものです。小さなことから大きなこと。浅いことから深いこと。些細なことから深刻なことと皆さんもいろんな疑問を抱いてこられたと思います。神様は人間の責任分担5%を尊重される方です。お父様が原理を解明する為に祈り求めてゆかれたように、疑問があれば答えを祈り求めると言うことです。
神様という方はイエス様から再臨まで2000年かけてこられたように気長で忍耐強い方なのです。すぐには解答を与えてくださいません。
そんな例をお話ししたいと思います。いつも私の見た夢の話で恐縮なのですが4年前にこんな夢を見ました。
お父様が午前と午後とみ言葉を語ってくださった後にお父様が私を読んでくださり「今日のみ言葉はどうだった?」と聞かれるので私は「お父様とてもよかったです。特に午後からのみ言葉がよかったです」と答えると、お父様は「時が来たからもういいだろう」とおっしゃりながら大きな茶封筒を取られ中から小さな紙を取り出され私の前で読んでくださいました。悔しいことに肝心な読まれた内容が記憶に全くないのです。私は貴重な宝物を無くしたような悔しい思いをしたのですが、そうか、お父様は「あなた自身で答えを見つけなさい」とおっしゃっておられるのだと悟り祈り求めたのですがいつの間にか忘れてしまいました。ところが先週のことです。4年前の答えとなる夢を見たのです。Dr. タイラーヘンドリックスと言うアメリカ全米協会長や統一神学校の学長を歴任した兄弟が夢に出てきたのです。彼が私の名を呼び見せたいものがあると言ってやはり大きな茶封筒から一枚の紙を取り出し私に見せるのです。そこには「オモニ」と大きく書かれてありました。それで全て納得がいきました。
タイラーヘンドリックスは3年前にお母様に呼ばれ「独生女」についての本を書くように特別な使命を受け彼は3年以上、清平で暮らし、ようやく書き終え今年アメリカに戻ってきました。
私が得た答えはお父様がおしゃりたかったことはお母様が独生女であることを伝えたかったのだと言うことです。
以上、祈りの目的についてお話ししました。
次にどのように祈ったらいいのかお話しします。お父様のみ言葉です。
「統一教会では祈ることを重要視しています。でも私たちには特別祈る方法はありません。」
みなさんは説教や講義や本などで祈りについて学んだと思いますが、かえって祈りを型にはめてしまい思うように祈れなくしてしまっているのも事実です。祈りに流派だとか決まり事などなく自由です。
神様との会話ですからなんでも自由に思ったこと考えていること感じたことを率直に伝えたらいいのです。
でも大事なことは祈る姿勢と心情です。
詩篇42にこのように書かれてあります。
「鹿が谷川を慕いあえぐように我が魂もあなたをしたいあえぐ。我が魂は乾いているように神を慕い生ける神を慕う」
このような心情と姿勢で祈ることが大切です。
冒頭で祈りを嫌う人が多いと言いましたが
好きな人も多いのも事実です。
なぜならば素晴らしい体験をしているからです。
祈りは自身で直接体験するものです。祈りは一段一段、階段を登るようなものです。祈祷とは祈る闘いと言われるように。壁にぶつかりながらブレイクスルーしていくものです。
旧約時代にイスラエルの民はバベルの塔を築き神に届こうとしましたができませんでした。
祈祷の塔のみが祈祷の力のみが神様に届くのです。
前置きが長くなってしまいましたがこれから共鳴する祈りについてお話ししたいと思います。
まずお父様が2005年にアメリカで語られたみ言葉を拝読したいと思います。
「皆さん私たちは、どうすれば天の意志と一つになる媒介者となれるでしょうか?神様と共鳴する状態に入るのです。自然界では二つの物体が同じ周波数で振動すると共鳴が起こります。
調和周波数の音波が共鳴を起こします。
共鳴する物体はもはや独立して振動せず一つの中心の周りを動き始めます。同じように人の霊人体と肉身が共鳴し神様の真の愛を中心として回転し始めると、その人の霊細胞と肉細胞が一緒に調和し始めます。するとその人の肉眼は霊眼と調和し物質世界のみならず霊界も見えるようになります。同じ理由で霊人体と肉身が一つになった状態に達すると地上世界と天上世界さらに神様と共鳴する状態になります」
皆さんは音叉をご存知だと思いますがサイズの違う音叉を使って片方を鳴らし音を止めると片方の音叉も音が止まります。
でも同じサイズの音叉を使った場合、片方を鳴らし音を止めても片方は鳴り続けます。
なぜかというと振動数が同じだからです。
共鳴祈祷も同じ原理です。
もう一つたとえ話をします。
イスラエルにこんな話が史実として残っています。紀元前1世紀ですからイエス様が生まれる100年前の話です。一年以上も雨が降らず、深刻な干ばつ状態でした。
預言者マラキから400年が経ち人々にとって奇跡とか神のみ言葉など遥か遠い昔の出来事となっていました。干ばつのように人々の信仰も完全に乾いていました。
そんな時代にホニという名の祈りの名人がいました。民から願われ祈ることになりました。
ホニは2メートルほどの杖で円を描き円の真ん中にひざまづき天に向かって両手を上げ祈り始めます。
「万物の主よ、大いなる御名の前で誓います。あなたがあなたの子供達に哀れみを示してくださるまで私は決してこの円から出ません」
すると群衆の額にポツリポツリと雨が降り始めました。待ちに待った雨に群衆は大歓声を上げました。
でもホニはまだひざまづき頭を垂れて祈っています。
「いいえ私が欲しいのはこんな程度の雨ではありません、溜池も洞窟も満たすほどの雨を降らせていただきたいのです」
すると土砂降りの雨が降り群衆は高台に避難しました。
それでもホニは相変わらず円の中で祈り続けています。
「私が願うのはこのような雨ではありません。あなたの恵み、祝福、慈悲を降り注いで欲しいのです」
すると雨は静かで穏やかなものに変わり人々に神への賛美と感謝をもたらすものでした。
この物語がなぜ共鳴祈祷なのかと思われると思います。
ホニの願いは雨を降らすだけではなかったのです。ホニの願いはイスラエルの民が神に帰って欲しかったのです。
神様の願いも雨を降らせることだけでなくイスラエルの民が神に帰って欲しかったのです。
ホニの願いと神の願いが重なり合い共鳴したのです。ホニの心と神様の心が同じ心で共鳴したのです。
私の霊と神様の霊が同じ振動数で共鳴することなど現実にあり得るのだろうか?
私の答えはイエスです。なぜかというと私自身が体験できたからです。
私は9月にラスベガスの天心苑での7日修練会に参加しました。
私は二つの個人的目標を持って参加しました。
まずは「真の父母論」を深く理解することと共鳴祈祷を体験することでした。体験するということは単に共鳴祈祷を一緒にすることでなく実際に神様と私が共鳴できる体験です。
そのためにも神様の心情に共鳴するには神様の一滴でもいいから同じ涙をながすことであり、そのことはそのまま真の父母様の涙でもあるはずであるという思いで臨みました。
私が初めてラスベガスの天心苑に行ったのは昨年3日間修練会の時でした。
その時の私の内的目標は「徹底的に過去を悔い改める」という事でした。
ところが第一日目、悔い改めるどころかまともに祈る事さえできませんでした。
2日目も同じでした。そして最終日の3日目の朝の祈祷会の時でした。私ははっきりと声を聞きました。「なんで過去の事にいつまでも、こだわるのだ。過去のことなど忘れなさい」その一言で私はその場に泣き崩れてしまいました。
そのことを通して教えられた事は神様という方は私の過去などには全く興味などないという事です。興味を持つのはサタンです。お前、以前、あんなことしただろう。こんなことしただろうと私たちを過去へ過去へと引きずり込もうとし私たちの目と心を過去へと向けさせようとします。神様がご覧になりたいのは私たちの将来、未来です。未来に向かって前進してほしいのです。
こんな体験があったので7日修練会では悔い改めの祈祷はしまいと決めこんで参加しました。
ところが明日、修練会が終わるというのに特別な体験はありませんでした。やはり所詮、不可能なことだったのだと諦めかけていました。
そして修練会、最後の祈祷会の時に私は約30分の間、子供のように嗚咽して泣き続けました。私は自分自身でわかるのです。この涙は今までに流したことのない涙であると。ではなんなのか?私の一番の目的は共鳴する祈祷を体験することでした。そのために神様と同じ涙を流したいということでした。でも私は、そんなことはどうでもいいという思いになりました。なぜならば、もっと本質的なことを悟らされたからです。それは神様の涙は枯れることなく泣き続けておられると言うことでした。
そして神様と同じ涙を流されてこられたのがお父様でありお母様ではないのか。そしてこのように祈られたと思います。「なぜそんなに泣かれるのですか?どうかこれ以上、泣かないでください。私があなたの涙を止めます。あなたの夢を叶えますからもうこれ以上泣かないでください」
祈りは神様との会話であると言いました。
本当の会話とは私の心霊と神様の心霊が共鳴する事によってのみ可能であると言うことが私の体験からの結論です。
会話と言っても祈りは言葉だけではないのです。祈りの背後には心情、思い、感情、魂もが込められているのです。このことはセックスに通じることです。究極の祈りの極地に至ると至上の喜びを体験します。その体験こそ共鳴祈祷だと思います。
皆さんは神社でお参りしたこと何度もあると思います。私たちが神社で参拝する対象は本殿の奥にある一面の鏡なのです。鏡は人の心を映すと言われます。あなたの心が清く澄み切っていない限り神様と相対できませんという意味があるのです。神社には必ず手水舎(てみずや)という水場があります。参拝する前に手や口をすすぎ心の汚れを水に流し清浄するためのものです。
神様が清く聖なる存在であるように。私達も清く純粋であってこそ神様に共鳴できるようになれます。そのためにも天心苑で祈ることと並行して日常生活では影のない正午定着な人間となれるように精進してください。
どうもご清聴ありがとうございました。