ウェビナー #33 :新生復活 ‐「意識改革のすすめ」
無意識と良心を開放した時に初めて見える壁の向こう側はどのような景色でしょうか?
影のない生活を通し、新生復活、新しく生まれ変わることの必要性について講師の宇山護が話します。
新生復活「意識改革のすすめ」
今年は巳年(みどし)です。ヘビは天下の嫌われ物ですが何度も脱皮を繰り返すことから
新生、復活、再生にたとえられています。
この1、2年の間に私たちが抱いてきた人生、信仰、真の父母様に関しての考えが根底から塗り替えられるような時代を迎えています。それこそ私たち自身が過去の考えを脱皮して生まれ変わる時代を生きているのではないかと思われます。
今月6日にお母様がニューヨークのイーストガーデンに来られた時に「なぜ、この時期に私がアメリカに来たと思いますか?それは、まだ真理を理解していない一世たちが多くいるからです。天一国が始まり12年、経っても今でも荒野で生きています。」と言われました。
お母様が言われる真理とは「真の父母論」のことです。真の父母論に書かれてある天の父母様、イエス様そして真の父母様の本質を理解できないどころか異疑を唱える兄弟姉妹が多いということです。
イスラエル民族はモーセの律法を硬くなに信じ
イエス様を信じることができず結局、罪人として十字架にかけてしまいました。
同じようにクリスチャンはイエス様の教えを硬くなに信じお父様、統一教会を異端だとし迫害しました。長年培ってきた考えや信念は簡単には変えられません。しかも本人たちは真理だと信じていたわけです。
同じことが今、私たちの内部で起きています。
お父様はアメリカで40年間過ごされました。70年代に復帰されたアメリカの兄弟姉妹はお父様との個人的な心情因縁が強く結ばれているため、独り娘としてのお母様に葛藤しています。
私の所属する教会に長年、原理講義をしてきた兄弟がいるのですが、原理ではこうだ、お父様はこう言っていると聞く耳を持ちません。
マインドセットと言う言葉、聞いたことあると思いますが。
「過去の経験や教育、育ってきた社会、環境、個人的な先入観などの、さまざまな要素によって形成される無意識の思考パターンや固定化された考え方」という意味です。
頭では今の時代は荒野路程でなく天一国の時代と分かっていても長年培ってきた無意識の思考パターンと固定化された考え方で体は天一国でも心は荒野を彷徨っている状態なのです。
長年、戦争に行っていた人が無事に祖国に帰ってきました。もう安心だ、平和に暮らせると思っても肉体は祖国でも心はまだ戦場にあるようなものです。
5年間、留置場で過ごし釈放されました。
シャバの空気はうまいなあと思っても肉体は自由でも実は心は刑務所の中なのです。
退職した人が、これから毎日が日曜日だ、やりたかった事やるぞーと思っても、体は退職しても心はまだ職場にあります。
私たちも献身した当時は喜んでいましたが体は教会にあっても心は堕落世界、エジプトをなつかしがりました。
このように一度、形成された無意識の考え方は簡単には変えられるものではありません。
私たちは新しく正しくマインドセットされなければいけません。そのためにはまずはコロンブスの卵の喩えのように頭を柔らかくしないといけません。
バルダン星人を知らない人がいると思いますがエビの怪獣です。エビですから腕がハサミですからジャンケンをして負ける人はいません。ドラエもんはグーですからジャンケンをしても負ける人はいません。でも、これからは、バルダン星人はハサミしか出せないとかドラエもんはグーしか出せないという常識的な考えは根底からくつがえされるような時代に今の私たちは生きているということを理解すべきです。
まずは、このような時代に私たちはどのような内的姿勢を持って臨むべきか、お話ししたいと思います。
参考になるのがヨブ記の最後に書かれてあるヨブが悔い改める箇所です。
義人と呼ばれ神の誇りであったヨブでしたが数々の信じ難い試練に会い神に疑問を投げかけます。
なぜ神は義であるのに神は愛であるのに正しい義なる者が罪を犯したことのない者が試練を受けなければならないのか?
長い沈黙の末ようやく神はヨブに語りかけました。そして、ようやくヨブは自ら悔い改め悟ります。
「私は自ら悟らないことを言い、自ら知らない、測り難いことを述べました。私はあなたのことを耳で聞いていましたが今は私の目であなたを拝見いたします。私はチリ灰の中で悔います」
ヨブはどんな事を悟る事ができたのでしょうか?悪に遠かった事ゆえに、罪に縁のなかった事ゆえに自分自身を正当化し神の摂理、計画、はかりごとを人間の小さな知恵で測ろうとした自らの愚かさを初めて知る事ができたのです。そして今まで知識でしか神を信じてこなかったが今は心で神を信じることができるようになった事です。
私たちの知恵や体験だけでは天の膨大な摂理や計画など到底、理解などできません。
生きた神と共に生きることの大切さもヨブ記は教えています。それは恵まれるばかりの平坦な信仰路程でなく山あり谷ありの信仰路程にこそ生きた神との出会いや対話ができるのだと教えています。
ヨブが悟ったこのような謙遜で謙虚な心構えで今の時代に臨むべきではないでしょうか。
それでは今までの考え方、価値観、習慣を見直して新生復活のための意識改革をどのように推進していったらよいのか話したいと思います。
意識とは簡単に言えば皆さんが今、感じている事、考えている事を自覚していることです。
例えば「腹、減った、喉が渇いた、疲れた、眠い」「きれいな景色だ、この音楽いいなあ、今回のウエビナーつまんないなあ」とかです。あるいは物事を論理的に分析するのが意識の世界です。
ところがこの意識改革と言っても簡単にできることではありません。
なぜかというと意識は意識だけではなく無意識から大きな影響を受けているからです。
無意識とホルモンは密接な関係にあり、脳や神経系の活動に結びついて私たちの身体や心の状態に影響を与えていることが科学的に実証されています。
フロイトという人は意識と無意識を氷山に喩えています。
水面から上、目で見える部分を意識と呼び、目に見えない水面下を無意識と呼び無意識が意識に多大な影響を与えていると説明しています。
意識は今、感じている事、考えている事、論理的な事に対して無意識は情的、本能的、直感的、霊的な世界です。
わかりやすく説明します。「お腹が空いた」と感じるのは意識ですが無意識がそのように働きかけるからです。「今回のウエビナー面白い」と思うのは意識ですがそのように思わせているのが無意識ということなのです。
心理学では抑圧され続けた感情は無意識という貯蔵庫の中に深く静かに生き続けると教えています。
仏教では無意識のことをアラヤ識と呼びます。
アラヤとは溜まっている場所という意味です。例えばヒマラヤ山脈のヒマは雪という意味です。溜まっている場所という意味のアラヤが合わさってヒマラヤと呼ぶそうです。
無意識の特徴は繰り返しや長年の習慣によって
無意識という貯蔵庫に蓄えられ生き続けることです。
スポーツや楽器演奏とかキーボードのタイピングなどは同じ練習を何度も繰り返して体や指が自然と無意識に反応し動くようになります。
反復することで無意識が覚えるからです。
それでは意識と無意識の関係をハイヌーンですのでポルノで説明したいと思いますが、ポルノに限らず全ての依存症にも言える事ですのでそのつもりで聞いてください。
ポルノを観続けると無意識の中に良いこととして記憶され蓄積されてしまい、ポルノを繰り返し観ることをうながすようになります。よくポルノを見てしまう理由にストレスがあげられますが、なぜかというとストレスがかかると無意識がポルノを見たら楽になると思い込ませているからです。
この事は孤独だから寂しいからという理由も同じで無意識がそのように長年の習慣から無意識がポルノを見たら解放され満たされると覚えてしまうためです。
他にもよくある例が何かをやり遂げた後とかです。
修練会の講義した後、説教した後、修練会に参加した後や大事なイベントが成功に終わった後とか試験の後に、なぜかポルノを観たくなるのは、無意識が頑張ったから、ご褒美としてポルノを観るように、うながすからです。
先ほど無意識の思考パターンと言いましたが
ポルノを観てしまうパターンがあります。なぜならば無意識が覚えてしまっているからハンを押したように同じパターンが繰り返されてしまいます。
ポルノを観続けると無意識が日常生活の一部と捉えてしまい当たり前な行為になってしまいます。
なぜポルノを辞めたくても辞められないのか?意識ではわかっているのです。どのようにしたらポルノがやめられるか。でも辞められないのは無意識の方が解決されてないからです。
ポルノを観たいと思うのが意識でポルノを観させようと働きかけるのが無意識なのです。
もう一つの例を話したいと思います。
先月、青年のためのウエビナーでサーカスの象の話をしました。サーカスに行くと象がいます。
面白い事に大人の象は鎖で繋がっていません。でも子供の象の足には鎖が繋がれています。なぜかと言うと、いくら象と言っても子供は子供なのです。一生懸命、逃げようとするのですが力がなく鎖を断ち切る事ができません。
何度も繰り返しているうちに子供の象は諦らめてしまいます。諦めたまま成長し自分にどれほど力があるのか知らずに大人になるからです。ですから大人の象には鎖が必要ないのです。
同じような例がノミを使った実験です。
箱の中にノミを入れます。ノミですから当然、箱から飛び出るくらいにジャンプします。
そこで箱に蓋をします。しばらくしてから蓋を取り外すとノミは蓋をした以上にはジャンプできなくなります。なぜ私が青年たちにサーカスの象とノミの話をしたかというと今、話した象やノミのような青年たちが多いからです。
今までの人生で学んだ事や体験した事や環境によって私は、僕はこういう人間ですと無意識の思考パターンと固定化された考えとなり自分で自分自身を枠にはめ込んでしまうからです。
素晴らしい可能性、存在能力、本性を持っているのに発揮できないどころか見いだせない青年が実に多いのです。
もっと空高く自由に思い切り飛べるのです。
大海を自由にどこまでも航海できるのです。
せっかく羽ばたける翼を持っているのに航海できる船を持っているのに使い方を知らずに成長したようなものです。
意識ではもっと高く空を羽ばたきたい世界中を航海したいと思っても無意識がブレーキになってしまい空を見つめるだけ海を見つめるだけになってしまっているのです。
著名な心理学者ユングとかフロイトは人間の良心は無意識の深いところに存在すると言っています。ところがネガティブな感情や過去の悪い体験などが蓄積されるという事はどうゆう状態かというと良心の周りをネガティブな感情、悪い体験などによって取り囲まれているような状態なのです。
正午定着とは影のない生活、人生ですが、影と言っても外的影と内的影があります。
外的な影とは先ほどお話しした意識の世界です。
ポルノを見る。自慰行為をする。裏表がある。嘘をつく。隠し事をする。秘密を持つ。などの実際に自分自身で罪だと悪いことだと自覚している行為です。
内的な影に当たるのが無意識の世界です。
恥の思いであるとか罪悪観、心の傷といったより内的な感情です。
性欲と情欲も無意識の奥深くに存在しています。
以前のウエビナーで話しましたが性欲と言うと悪いイメージがありますが神様が人間に与えてくださった尊いものなのです。エバが霊的堕落しアダムとエバが時ならぬ時に肉的堕落をしたことから解るように堕落以前のアダムとエバに性欲があったことは間違いありません。
情欲は堕落した後に生じたものです。
性欲も情欲も人間の良心や霊人体が肉身の行いによって成長するように成長、育まれるものです。性欲を神側のものとすると情欲はサタン側のものです。情欲の欲するままに生きてきたとすると情欲の思いが無意識に蓄積されどゆう状態になるかというと神様が与えてくださった、尊い性欲が情欲に囲まれてしまっているような状態です。良心と同じように性欲が情欲によって包まれているようなものです。
お父様が「良心の命令に絶対服従してこそ(本然の自我)を見出すことができる」と言っておられるように本来なら無意識の中にある良心と性欲が正しく機能し意識に善なる影響を与えたなら、その人の人生は素晴らしいものになるはずなのです。自由に空高く飛び大海を航海できるようになります。
自我とはアイデンティティのことです。私は誰なのか何者なのか?本然の私自身を発見することができるということです。
ポルノを克服するには方法手段マニュアル通りには行きません。一時的に辞められても辞め続けることはできません。いつも言うように性に関する事は実に霊的で本能的で情的なものだからです。まさに無意識の世界そのものです。
それでは信仰について話したいと思います。
信仰の世界は単に教理や教えを信じるだけではないのです。教理や教えは意識の世界です。長年の信仰生活で積み上げられたもの実践して体験した事が無意識の中に蓄積されます。信仰が善であり人生の一部分であり日常生活の一部分となります。
ですから長年、信じてきた宗教を改宗するとか棄教すると言う事は、決して、たやすい事ではありません。特に熱心に信仰してきた人ほど困難です。どんなに迫害されてもむしろ熱くなります。先ほど話したように、かつてのイスラエル民族、クリスチャンのように新しい真理に対して妨げになってしまいます。
ちょうど目の前に壁が築かれているようなものです。どんな壁かというと無意識という壁なのです。過去に学んだこと体験したことが無意識という壁となって壁の向こう側に見える新しい世界、素晴らしい景色を見ることができなくしてしまっているのです。
目の前の壁を取り除く必要があります。
かといって過去を忘れなさいとか否定しなさいということではありません。
無意識を解放するのです。
そんなことできるのかと思われるでしょうが。誰でもできることです。
カウンセリングとかセラピーは一つの手段ですが時間とお金がかかります。それよりも簡単にでき確実に効果が出るのは、やはり影のない生き方をすることです。正直、グレイス、インテグリティ、アカウンタビリティ、勇気の5つの美徳を生活の中に習慣化したら無意識の中に蓄積されていきます。
さらに付け加えれば感動する体験をたくさんする事です。
感動や喜びを無意識に積み上げていくのです。
そうすると悪いウミや毒が出され良心が目を覚まし育まれ解放されます。
この体験こそ以前、話した煩悩即菩提という考えです。もう一度おさらいします。
煩悩は読んで字の如く思い煩い、悩むことです。
即とは、そのまま転じるという意味です。
菩提とは一般に悟りを意味しますが喜びとか幸せを意味します。つまり心の苦悩が転じて喜びに変えるという意味です。
ちょうど干し柿は、元々は渋柿を干したものです。渋みを抜いて甘みを加えたのではありません。しかも渋みが強いほど甘くなるというのです。渋柿即甘柿となるのです。煩悩即菩提は決して不可能ではありません。
皆さんは人生を変えるような感動的な体験、何度かあると思います。その時の気持ち、今でも忘れずに覚えていると思います。
私が初めて7日修練会に参加した時でした。修練会の最後にリトルエンジェルスのビデオを、観せてくれたのですが私は初めて観たリトルエンジェルスにとても感動しました。閉会式の時、私は前に進み出て修練会のスタッフが喜ぶような演説をしました。「皆さん私は原理に感動しましたがリトルエンジェルスにも感動しました。皆さん、あの笑顔を見ましたか?私はあのような笑顔があふれる世界を築くために私は今、献身を決意します。皆さんも献身してください。一緒に神の国を築きましょう」
このように感動すると我ならぬ我となり、その人を善なる言動、善なる人間へと導いてくれます。本心が目を覚ますのです。
依存症を克服できた人、宗教を改宗した人に一つの共通点があります。
それは神体験、聖霊体験とか感動的な体験です。
改宗した著名な人たちを見ると霊体験や夢で導かれています。教会の草創期の頃はほとんどの食口が夢や啓示にとって導かれ入教してきました。ほとんどの方は熱心なクリスチャンでした。
無意識の特徴は反復、繰り返しです。悪い習慣を取り除いて善なる正しい習慣を身につけることです。
私はよく小さな勝利をしなさいとアドバイスします。たとえばポルノを見てしまい味わう一時的で刹那的な快楽と必死に闘って乗り越えた時の喜びとどちらの方が、喜びが大きいかです。たとえ負けたとしても負け方が大事です。
ちょうど相撲に例えれば土俵際で自分の方から足を土俵の外に出すような負け方なのか、それともギリギリまで耐え忍んで負けたなら価値ある負け方です。これは同じ負けでも内的には勝っているのです。必ず明日に生かされます。
イエス様がカラシ種の信仰があれば山をも動かす。と言いました。山を動かすとは不可能と思えることを可能にすることです。
同じようにカラシ種のような小さな勝利を積み上げていくのです。いつの日か必ず大きな勝利となり山を動かします。大きな感動を与えてくれます。そうするとポルノなって小さなものに見えてきます。ポルノを大きな存在にしているのは当の本人なのです。
心が喜ぶには一人では喜べません必ず対象が必要です。世の中には感動的なことや美しい自然や景色たくさんあります。感動的なもの、美しいものを見てください、聞いてください、感じてください。そして愛する人、信頼できる人と心深く授受作用をしてください。
先週、私の相対者が朝から落ち込んでいたので「ちょっと出かけようか、綺麗な景色見せてやる」と車で15分の所にある綺麗な湖に連れていってあげたらとても喜んでくれました。
美しい自然に触れただけで心が復興するものなのです。
皆さんは天心苑で何度も泣いて祈ったと思います。その時の皆さんには一点の、よどみも無く清らかなのです。そのような体験を通して心霊が育まれ無意識が解放されていくものです。
無意識が解放されて初めて意識改革が可能となります。すなわち本然の良心の解放でもあり本然の性の解放でもあります。このことが正午定着なのです。無意識の解放即良心の解放となるのです。そして当然、皆さんの身体に心に心霊に善なる影響を与えてくれます。
それではこれから無意識の解放について私の体験をシェアしたいと思います。
その前にどのような心理状態であったかを理解するのに、わかりやすい例を上げたいと思います。大正9年から12年に出生した男子が太平洋戦争で最も戦死者が多かったと記録されています。そのため生きて生還した人達は強運な人と称えられました。
では当の本人はどう思っていたでしょうか?
なぜ自分だけ生きて帰ってきたのか?犠牲になった戦友達に申し訳ない。と生きて帰ってきたことに長い間、罪悪感と恥の思いで苦しんだのでした。そして多くがアル中になったりヤクザになったりして、苦しみから逃れようとしました。
私の体験した内容は全く次元の違うものですが
質は同じです。ちょうど同じメロディーだけれども歌われている歌詞だけが違うようなものです。
以前の私は自虐的人生観と呼んでいるのですが自分自身に対する罪悪感、恥の思いから自分自身を徹底して責めてきました。
頭では神様に赦されている。生かされている。愛されていると思っていても心はそんな事ないこんな罪汚れた者を赦すはずなどない。
自分のような人間など愛することなどあり得ない。と自分の方から神様を遠い存在にしていました。
例えば実績が与えられたとしても、なんで私のような者に実績を与えるのですか?
責任ある立場に立たされても、なんで私のようなものを用いるのですか?祈りでも私にはあなたを親と呼ぶ資格さえありません。
礼拝の説教をする前に必ずこう祈っていました。「天の父母様、罪深いこのようなものがあなたの尊いみ言葉を語ることをどうぞ、お赦しください。私にはみ言葉は語る価値などございません」謙遜に聞こえるのですが実のところ自分を卑下(ひげ)して自分を責めていたのです。
私はよくみ旨のために死にたい。御父母様のために死にたい。と公言していました。聞こえはかっこいいのですが本音は生きる価値がないと信じていたからなのです。
私自身が以前とは違う意識、考え方、感じ方に変化を感じるようになったのは、この5年間の事です。
ではどうして変わることができたのかお話しします。
私の場合は霊体験とまではいきませんが夢を通して私自身の無意識の世界が解放されました。
皆さんが眠っている時は意識も眠りますが無意識は眠らずに活動を続けます。その一つが夢です。私は過去5年の間、以前になくよく夢を見ました。5年前の日記に書かれたものをそのまま読みます。
2月23日(土曜日)深刻な夢だった。
30人から40人くらいいた部屋で一人また一人と次々にいなくなっていく。その場が死刑の場であることに気づく。一人ずつ死んでいくのだった。そこは自分の判断で死を決定しなければならない。決意できた時に自分の決断で死刑を挙行する。私はすぐ後ろにいた男性に長い針のようなものを渡し死刑をお願いした。
その前に「ちょっと待ってください。ひと目家族を見させてください」と頼み後ろの方を探したが家族はいなかった。私は諦め死刑をお願いした。首の真後ろに針が刺される直前に「天のご父母様、真の御父母様ありがとうございました。そして家族、特にキャロライン(相対者)に感謝した」直後に針が首に挿入された。
自分は本当に死んだと思った。目の前に展開されたのは、なぜか以前見たテレビドラマだった。以前途中で観るのをやめたドラマが続きから展開されていた。私は車椅子に乗せられて誰かが後ろから押してくれていた。死んだものと思っていたがまだ生きている。
車椅子に座っている最中、見渡すと一面が光に溢れているので、これが噂に聞いた霊界かと思った。でも何で車椅子なのだろう。一体誰が押してくれているのかと思い後ろを振り向いた瞬間、目が覚めた。死ななかったのだ。自分はまだ生きていると思った。そのままトイレに行き生きていることを神様に感謝した。
今までに2度、死ぬ夢を見た事がある。生まれ変わる。新生。古き自分が死に新しく生まれ変わることを意味すると聞いている、そのように信じたい。テレビドラマは何を意味するのか考えてみた。新しく生まれ変わってまだ書き終わらない自分の物語、人生のストーリーを残された人生で完成しなさいという神様からのメッセージであると解釈した。それから過去の事にとらわれず新生したと信じてこれからを生きていきなさい私がいつも後押ししてあげるからと。受け止めた。以上が当時の日記に書かれた内容です。そして2日後に続きのような夢を見ました。
2月25日(月曜日)
夢にも続きがあるとは思いもよらなかった。
部屋に何十人といるところにお母様がチマチョゴリを着て入ってこられた。全員で敬礼を捧げる。するとお母様が私と隣にいた兄弟の前に来られて私とその兄弟をお母様の部屋に呼んでくださった。ただそれだけの夢だった。
時間にすると短い夢だったが一昨日、見た夢の続きと思えるのは一度死んだ後に復活してお母様にお会いできたからだ。もう一人の兄弟はもしかして私の後ろにいた死刑をお願いした兄弟だったかもしれない。車椅子を押してくれたのも同じ人物だったのかもしれない。なぜか顔が確認できなかった。
さらに数日後にこんな夢の事も書かれてあります。「私が拷問を受けている場面であったが突然、今度はお父様が私の代わりに拷問を受けている場面に変わった。お父様に私は何をしたら良いですか?と尋ねると「木を植えなさい」という意味深い答えをいただいた。他にも男性だけの修練会中に興進様が来られ霊界は大変忙しく人手が足りないのでこれから人選すると言われ一人ひとりを見てゆかれた。私に前に来られ「あなたはまだ準備できていない」と言われました。
皆さんがこんな夢を見せられたらどのように解釈しますか?共通している事があります。
一言でいうと新生、新しく生まれ変わりなさいというメッセージです。
私はこれらの一連の夢を通してこれは神様の声だと真剣に受け止め。
生かされ新生復活した事を実感し「私は赦されたのだ」「私は生かされている」「私の祈りを神様は聞いてくださる。神様の方が聞きたいのだ」「死んではいけない、生きなければならない」「礼拝は必ず導かれる。素晴らしい礼拝になる」
傲慢に聞こえますが以前では考えられない意識、考え方、感じ方になりました。
今回お母様は「天の摂理歴史において、天一国を生きている私たちです。過去にこだわらないでください。過去に執着していては完成できません。過去それ自体は完全ではありません」と話されました。
歴史の恩恵を受けて今の私たちの人生があります。科学、技術、文化、学問、社会制度など先人たちが努力して築いた知識や技術、文化などの恩恵を受けているのが私たちなのです。
今の私たちはかつてなかった霊的、恩恵を受けているのです。だからこそ私たちは新生され再創造できる事が可能なのだと言えます。
冒頭でなぜ、お母様が入宮式を前にアメリカに来たのか?と話しました。
「真理を理解していない者が多いから」と言いましたが、これこそお母様の大きな親の愛なのです。一人でも多く、恩恵に給われるようにとアメリカの兄弟姉妹に普段のお母様では考えられないほどに長い時間をかけてみ言葉を語ってくださいました。
サウロ王はイスラエルの最初の王ですが不信仰から神に見捨てられ神はダビデを次の王に選びます。ダビデに嫉妬し怒ったサウロはダビデを殺そうとします。ダビデを追うサウロはある洞窟を見つけ休むために一人洞窟に入ります。同じ洞窟の奥にダビデと仲間達が隠れていました。
仲間達は「これは神の計らいです。サウロを殺してください」とうながすのですがダビデは「いや、私は彼を殺さない、なぜなら彼は主によって油を注がれ選ばれた者であるからだ」
今回お母様は全ての祝福家庭は選民だと言われました。つまり私たちは選ばれた民です。油を注がれた者達なのです。
これもお母様のみ言葉です。
「独り娘である真のお母様が基元節を開き、天一国を開きながら12年ぶりに天の父母様を直接地上で侍ることができる環境圏と条件を全て整えました」
私たちが現在、今日この瞬間に信じ侍る神は旧約、新約、成約とご苦労された神でなく真の父母様によって創造本然の堕落以前の天の父母様になられた神なのです。
無意識だの意識だの聞きなれないことを話してきましたが神様が願う正午定着された影のない本然の人間になることが、天の父母様に実体で侍り生き、真の父母と一つになった選民としての責任であり天一国の真の子女になることではないでしょうか?
以上です。
どうも、ご清聴ありがとうございました。