ウェビナー #28 :あなたの克服を妨げるもの
第28回:あなたの克服を妨げるもの
「あなたの克服を妨げるもの」
今回の内容は克服を妨げているものです。何の克服であるかというと依存症です。何が依存症を克服するうえで妨げとなっているのか7つの事についてお話したいと思います。
まずは環境です。
実は日本は先進国の中ではギャンブル依存症の占める割合が世界一なのです。意外に思われたのではないかと思います。確かに外国にはラスベガス、モナコ、マカオ、シンガポールなど有名なカジノがあります。
ではなぜ日本がギャンブル依存症世界一なのでしょうか?なぜだと思います?それはパチンコ屋です。よほど田舎に住んでいない限り車で10分20分とか自転車で行けたり歩いて行ける人もいます。実に便利な所にあるからです。
なぜポルノを辞められないかと言うといつでも、どこでも、無料で、誰にも知られずに観る事ができるという便利さにあります。
私ごとになりますが私は先月13の中心悪霊の解放をさせてもらいました。
では中心悪霊を解放したらもうハイヌーンは必要なくなるのでしょうか。私はそう思いません。なぜかというと私たちの住む生活環境は同じだからです。
相変わらずコンピューターを使います。スマホは手放せません。美味しいケーキ類や酒類は店先から消えることはありません。韓国ドラマはいつでも観れます。パチンコ屋は街から消えることはありません。
いつでも以前の悪い習慣や依存症に戻ってしまう環境の中で生きているのが現在の私達なのです。
依存症を克服できたからもう大丈夫だ心配ないと思うのは危険な考えです。
昨年ある2世の男性が私の家を訪ねてきました。彼は31か2の年齢で祝福を受けて家庭も持っています。彼がいうには自分は今までに一度もポルノを見たことはなかった。でも先週、無性にポルノを見たくなったというのです。彼は悩みました。過去に一度もポルノなど見たことがないのになぜ突然、観たい衝動に襲われたのか。
彼がたどりついた結論は観なかったのではなく、ただ観たくても我慢していただけだったのだということです。
ではなぜ今頃になって無性に見たくなったのでしょうか?最近、相対者との関係が上手くいかず彼はかなり落ち込んでいたところでした。そのタイミングでポルノを見たいという衝動が起きたのだと思います。
心理学では抑圧され続けた感情は無意識という貯蔵庫の中に深く静かに生き続けると教えています。
仏教では無意識のことをアラヤ識と呼びます。
アラヤとは溜まっている場所という意味があるそうです。例えばヒマラヤ山脈のヒマは雪という意味です。溜まっている場所という意味のアラヤが合わさってヒマラヤと呼ぶそうです。
自動車がオイル交換したりタイヤのローテーションをしたり2年に一回、車検をして自動車のメインタラスをするように私達自身もメインタラスが必要です。
ポルノを克服できたからもうハイヌーン必要ないでなく最低週に一回のグループミーティングに参加し続けることをお勧めします。
心理カウンセラーにかかると問題が解決できたら終わりかというとそんな事はありませんその後も何年と通い続けるようになります。
依存症には期間限定はありません。私達が生きている限り様々な問題や不幸に遭遇します。
そんな時に無意識の中に眠っていたものが目を覚まし活動し始め過去の悪い習慣や依存症に戻そうとします。
ポルノを見なくなって10年20年たったから大丈夫という保証はありません。それこそ霊界に行くまで辞め続けなければならないのが克服の道のりなのです。病気になってからでなく健康な時こそ常日頃から気をつけることが大切であることと同じです。
2番目は家族や身近の人の間違った接し方です。まず理解してほしい事は依存症とは辞められない病気であるという事です。
依存症になるのは意志が弱いからでも倫理観がないでも人間性、人格が歪んでいるのでもありません。
そんな事に関係なく繰り返してしまうのが依存症なのです。依存症の人に対する接し方の悪い例をあげたいと思います。
例えば説教する、責める、叱る、罵倒するといったその人の人間性を非難するとか、もう2度と観ないと約束させるといった、その人の意志に訴えることなどはむしろ傷を深めてしまいます。
なぜかというと言われる以前から罪悪感で苦しんでいるのが当の本人ですし口うるさく言われなくとも当の本人が充分、自覚しているからです。ちょうど傷口に塩をすり込むような物です。
あとやたらとお巡りさんになったように監視をしようとする人がいます。コンピューターとスマホのパスワードを聞きだし、ひんぱんにチェックしようとします。
これも逆効果です。なぜかというと見えない圧力を与えストレスとなり返って依存症に拍車をかけてしまいます。これらは厳しい接し方の例ですが全く逆のケースもあります。
例えば夫がこっそりとポルノを観ている事を知っていてもあえて無視、黙認、見て見ぬふりをするケースです。あるいはポルノを見るような状況を与える場合です。どうゆう事かというと、夫に一人の時間を与えるということです。2時間とか3時間でなく
1週間とか1ヶ月、家を留守にする事です。もちろん何らかの理由があるはずです。夫の方としてはどうぞご自由に見てくださいと受け止めてしいます。
一緒にポルノを見ましょうという女性がいますがこれも良くありません。ちょうどアルコール依存症の夫に私にも飲ませてとせがむようなものです。
あとは「私の夫がポルノを観たりするのは私に魅力がないからなのでは私がセクシーでないからでは」と思いセクシーな下着をつけ始める女性がいますが気持ちはわかりますが、これもしてはいけない行為です。アルコール依存症の夫にアルコールを勧めるようなものです。また急にセックスに積極的になる女性がいますがこれも逆効果です。いいですかどんなに魅力的で美人な奥さんがいてもひんぱんにセックスをしていたとしても関係なく見てしまうのがポルノという魔物なのです。
依存症とは辞めたくても辞められない病気です。
もう2度と観たりしないと約束しても三日後には観てしまうものです。簡単に約束を破ったり平気で嘘をつくのは依存症の症状なのです。
家族の中に認知症の人がいたとします。
おそらく認知症とはどのようなものなのかネットで調べたり本を読んだり専門医と相談すると思います。うちの夫はポルノを観ている、うちの息子はポルノを観ている事に蓋をしたり隠したり無視するのでなく依存症についてよく理解し家族が一丸となってポディティブに協力し合って取り組むことが大切です。
3つ目は性格、評価、評判です。
みなさんは「あの人はポルノ依存症です」という人をどう見るでしょうか?
正直あまり良いイメージは持てないではないでしょうか。。実はその事もその人が依存症を自覚できない理由でもあるのです。なぜかとゆうと「俺はそんな人間じゃない。あんな連中と一緒にされてたまるか」と変なプライドを持ち正当化するからです。私自身も偏見を持っていました。
でもハイヌーンに携わるようになって180度見方が変わりました。
依存症になりやすい性格というのがあります。
意志が強く責任感が強く人に頼らず一人で頑張ろうとする人です。さらに言えば完璧主義な人も依存症になりやすいと言えます。もちろんこのような人が全員、依存症になるという事ではありません。
依存症にもメリットがあります。それは心の痛みや不安、緊張感を一時的に緩和(かんわ)してくれる痛み止めのような効果があります。
ここにポルノを辞めたくても辞められない何度も繰り返してしまう本質的な理由があります。
孤立しやすい人、一人で頑張り過ぎてしまう人は常に不安と緊張感と背中合わせで生きているからです。この事は尊敬され実績を積み上げてきた責任者にも同じ事が言えます。
いわゆる人格者が一人歩きしてしまい本当の自分との間にギャップがある場合です。
周りから賛美されればされるほど、本当の自分がどんな人間なのかわかるので苦しみます。
苦しみから逃れるようにポルノに行くという悪なる負のループが繰り返されてしまうのです。
4つ目は依存しているからです。
よく〜〜〜なしでは生きられないという言葉を聞きます。あなたなしでは生きられない。夫なしでは。妻なしでは生きられない。信仰なしでは生きられない。ゲームなしでは生きられない。スマホなしでは生きられない。音楽なしでは生きられないなどです。
〜〜〜なしでは生きられないの言葉を変えると〜〜を失うのが怖いとか不安だと言う心理状態があると言えます。
〜〜〜〜がなしでは生きられないという背後には依存心があるからです。依存しているから失う事に不安や恐怖心を持ちます。
ポルノなしでは生きられなくなっている状態がポルノ依存症です。ポルノを克服しよう観るのをやめようとすると。失うことへの不安、恐怖心をもたらします。苦しみから逃れるように安らぎを求めてポルノへ行ってしまいます。
なぜか、その方が心理的に楽だからです。
そうやって先ほどお話たように悪なるループが繰り返されます。
5つ目です。純潔と性に対する過剰な教育です。
ほとんどの祝福家庭は性に関しては話しません。
でも純潔については厳しく教育します。
例えばテレビを観ていたらキスシーンが出てきました。するとチャンネルを変えるかお子さんの目を手で隠したと思います。
修練会や教会では男の子と女の子は同じ部屋で一緒になって話してはいけません。手を握ってはいけません。車の後ろの座席に男女で座るときは間に鞄か何かを置くようにとか。ポルノ観てはいけません。自慰行為は良くありません。そんな事をしたら地獄に行きます。さらにご丁寧に地獄のビデオを観せられます。
人間の心理には「やっちゃいけません」「見てはいけません」「触ちゃいけません」と言われると返ってやりたくなる。みたくなる。触りたくなるという逆の心理現象が働きます。
この事をカリギュラ効果と呼んでいます。
「鶴の恩返し」とか「浦島太郎」や「パンドラの箱」の話覚えていますよね。「見ないでください」と言われれば見たくなってしまいます。「開けてはいけません」と言われれば開けたくなってしまう心理です。
ロミオとジュリエットは結婚を反対されればされるほど燃え上がってしまうとか、「ここだけの話ですよ。私とあなただけの事にしてくださいね。他言しないでくださいね」と言われれば逆に言いたくなってしまいます。
ホラー映画で「心臓の悪い人は観ないでください」と言われると観たくなります。「18歳未満お断り」というと逆に18歳未満でも観たくなります。
なぜこのような逆の心理が働くかというと人間は自分の行動は自分で自由に自分の意志と感情で決めたいという欲求を持っているからです。
他人に一方的に禁止されると欲求不満から強い反発が生まれ逆に禁止された事をやりたくなるのです。
学校の校則というのも厳しければ厳しいほど生徒は反発して規則破りが続出します。
規範という言葉があります。規は規則の規に範は模範の範と書いて規範です。
どうゆう意味かというと簡単に言えば「・・・すべき」とか「・・・すべきでない」「・・・ねばならない」と行動や判断の基準になる模範や規則決まりのようなものです。
私達の信仰生活、日々の生活は教会の教え伝統を規範として生きているわけです。
この事は大切な事であるのですけれど教会の規範に縛られすぎるのは問題です。
よく言えば真面目であると言えますが真面目一点張りになると堅物、融通が効かない、四角四面となってしまいます。私が若かった頃は婦人警官と結婚したい男性はいませんでした。
なぜかと言うと何でもかんでも規則に縛られていて全然、融通が効かず真面目一方で付き合っても全然面白味がないからです。
教会には男性でも女性でも生真面目な人が多いです。怠けることができません。
他のメンバーが苦労しているのに旅行なんていけませんとか規範に背くと罪悪感に苦しんでしまいます。私が言いたい事はいつの間にか教会の規範が生活の中心となって縛られてはいませんかと言う事です。なぜ礼拝に参加するのか活動するのか祈るのか訓読するのか信仰生活を送るのかという本質的な理由を忘れてしまいかねないからです。
模範的(もはん)な教会員なのだけども生真面目すぎてみ旨に熱心で一生懸命歩むのだけども思うように成果が上がらなく疲れた疲れたが口癖になってしまいます。
教会の規範、伝統を無視すると言うことではありません。バランスをうまくとってくださいと言うことなのです。神様は人間にその人にしかない個性と5%の責任分担を与えてくださいました。
神様の喜びはそれぞれの個人が自分らしく束縛されることなく自由に生きている姿をご覧になる事にあると思います。
いいですかこの事もポルノを克服する妨げになっていることでもあるのです。
なぜならば規範に縛られて「とって食べてはいけない。食べたらあなたは死ぬであろう」
「・・・したらいけない」「・・・を見てはいけない」「・・・を触ってはいけない」
もちろん「やってはいけない事」「見てはいけない事」は守らなければいけませんがその事だけに束縛されるとみなさんに本来、与えらた素晴らしい個性や能力が発揮されず自由で独創的な考えや発想ができません。
教会の教えを頑なに真面目に守っている人であればあるほど教えに反すると強烈な罪悪感に苦しめられます。先ほど例を挙げましたが温泉に行くとか贅沢をするとかだけでも罪悪感を感じてしまいます。
ましてやポルノを観てしまいました。
自慰行為をしてしまいましたとなると本人からすると世界の終わりに近いのです。そのため深刻に悩みます。結局先ほど説明したように苦痛から逃れるようにして再びポルノに向かい負のループとなり反復しどんどん深みにのめり込んでしまいます。
この5番目にお話した事はとても大切な事です。
なぜかと言うと家庭連合では今お話した内容が当てはまる人が多いからです。
話がずれますが関連しているので付け加えたい事があります。二世の子供達、ポルノの問題はかなり深刻ですがあまり知られていないのがうつ病で悩む子供達が多いという事です。
そんな子供達に共通しているところがあります。
どの子もとても良い子なのです。真面目で素直でそれこそ模範的な二世たちで周りから感心の目で見られています。
人間は立場や職業に合わせた顔をつくります。
公務員なら公務員の顔を作ります。ヤクザはヤクザの顔を作ります。病院の医師、弁護士、学校の先生警察官、看護師、芸術家、タレントなどそれぞれが顔を持っています。でもその顔は自分で作った顔ではありません。
社会や世の中から無言に要求されて作られた顔なのです。長く何年も同じ顔でいると本物でない自分の顔が本当の自分の顔だと錯覚するようになってしまうものです。
なぜかと言うと本当の自分でない顔の方が生きるのに便利で楽だからです。二世達も二世とはこうあるべきだという教会内からの無言に要求されて作られた顔を作っているのではないでしょうか?私たち信仰する者も信仰者の顔を作ってはいないでしょうか?
教えを守り、かと言って教えに束縛されるのでなく自分らしく等身大で自由に生きられるよう努力してください。そして私自身の真実な顔を作っていってください。そうすれば安心感と安らぎの抱ける生き方になります。
もう一つ付け加えると、過剰な性教育、厳しい性教育が子ども達に対して性に関して恐怖心を植え付けてしまっていると言う事です。
実例をあげたいと思います。毎年2世のカップルが家庭をスタートしています。
初夜は特別なものですから何ヶ月も前から計画を立てて準備します。ところがいざ初夜を迎えるとうまくいきません。セックスの仕方がわからないのか?今の子供達にそんな子はいません。
ではなぜでしょうか?過剰な性教育、純潔教育が
セックスに関して嫌悪感を植え付けてしまいセックスは汚いもの恥ずかしいものという概念が刷り込まれセックスそのものに対して恐怖心を抱くようになってしいるからです。
せっかくの初夜でも女の子の方が「ごめんなさい。今夜は無理です。明日にしましょう」明日になっても同じです。3っ日目も同じです。このような話が私の身近だけでも何人かから聞かされていますから実際は意外と多いかもしれません。
家庭部任せ修練会任せでなくお父さんお母さんが教えていく事です。なぜ純潔を守ることが貴く大切なのか、絶対性の意味をよく噛み砕いてわかりやすく教えてあげてください。
6つ目です。6つ目は間違った動機です。
この動機というのは「なぜポルノを辞めたいのか。自慰行為を辞めたいのか。」という動機の事です。
なぜポルノを辞めたいのか克服したいのかと言う明確な理由です。
人それぞれ違う動機を持っています。
例えば人に知らさられたくないから特に相対者と子供、知らされる前に克服したいから。
祝福を受ける前に克服したいから。家庭を持つ前に克服したいから。
相対者を悲しませてしまったから克服して喜こんでもらいたい安心してもらいたいから。あるいは相対者が怖いからこれ以上相対者からキツく責められるのが嫌だから。あるいは神様をこれ以上悲しませたくないから。
これらはもっともらしい理由ですが自分以外の事に動機をおくと自分以外のもの次第になってしまいます。つまり第三者次第になってしまいます。
一番多いのは相対者を動機にする場合です。
わかりやすい例をあげれば、なぜゴミ出しや食器洗い洗濯をやるのか妻に小言を言われるのが嫌だから。となると小言を言う人がいなくなるとやらなくなってしまいます。
おっかない先生だと真面目でおとなしくても先生がいないと騒ぎ出します。
相対者に動機付けすると相対者次第になります。
一週間、相対者が実家に帰り家を留守にしました。となると三日目、四日目くらいになるとぐらついてきます。
みなさんが何らかの病気であるとします。何のために治療して健康を取り戻したいと思いますか?
家族のためである事は間違いないですが。本人が健康になる事が人生で健康というかけがえのないものを得る事で充実した人生を送ることができます。すると自然と家族のためになるし周りの友人や親戚、職場の人たちのためになるわけです。
克服することも同じです。克服する事ができたなら、その人の人生、未来は素晴らしいものになります。自然と家族や周りの人たちの為になるわけです。
なぜ私はポルノを辞めたいのか克服したいのか、もう一度自分の本心に問いかけてみてください。
なぜ大切であるかというと、動機が曖昧でも4年5年はポルノはやめる事はできます。でも動機が曖昧であると失敗、再発してしまう可能性があるからです。ポルノを克服するとは動機を明確にして持ち続ける事である事と必ず依存症になる内的原因があります。外的原因を上げたらキリがありません。必ず一点、たった一つの内的原因があるはずです。その事を発見し取り組み解決できるように努力する事です。
そういう意味でも克服できたという結果よりも
プロセス、過程の方が大事です。
克服に失敗、再発はつきものです。決してスムーズには行かないものです。失敗を何度も繰り返しながら克服されていくものです。
最後の7つ目です。これは過去の悪い体験から脱皮できない事です。
克服するとは未来に向かう事なのです。
だけれども過去にあんな事してしまった。こんな事してしまった「ああ、俺はなんて悪い人間なんだ。なんと言う罪深い人間なんだ。生きている価値がない」といつまでもくよくよしていたら前に進むどころか逆行してしまいます。
過去にこだわるという事は、言葉を変えれば人生をもう一度やり直したい。良き人生を生きたい。という事です。できる事なら過去の自分に帰ってやり直したいという事でもあります。
私も過去に戻ってやり直したいと何度も考えました。献身した当時に戻って信仰生活をやり直したい。祝福を受ける前に戻りたいとか。家庭を持つ前に戻りたいとか。子供が生まれる前に戻りたいとか。何度も思いました。いいですかみなさん。例えそんなことが実現したとしても、申し分ない完璧な人生になり得ると思いますか?多少まともな人生にはなると思いますが、やはり間違いを犯したり罪な事を繰り返す人生になってしまうと思います。
月並みですが過去を変えることはできませんが今日、明日、未来は私たちの取り組み次第で過去の人生以上に素晴らしいものになり得ます。
昨年ラスベガスにある天心苑での三日修練会に参加した時の体験をシェアしたいと思います。
私の内的目標は徹底的に過去の人生を悔い改める事でした。初日、悔い改めるどころか祈ることさえできませんでした。二日目も同じでした。全然祈れませんでした。言葉は出るのですが祈りになっていないのです。そして最終日の朝の祈祷会の時でした。
私は神様の声を聞きました。神様は私を叱るのです。過去の事でいつまでクヨクヨしているのだ。過去など振り返るな。その瞬間、私は嗚咽してしばらく泣き続けました。
神様という方は私たちの過去など見たくも聞きたくもない方だと思います。
これからの人生をご覧になりたい方だと思います。
最後に私の机の上にいつも置かれてある一枚の紙があります。こんな言葉が書かれてあります。
英語ですが
“ Make The Rest of My Life The Best of My Life”
訳すと「私の残された人生を私の最高の人生にする」です。
これからのみなさんの人生は宇宙に向かって飛び立つ宇宙飛行士のようなものです。未知の世界ですが今までの人生で見たこともない感じたこともない体験したことのない夢と希望に溢れる人生航路です。
宇宙から地球を眺めてみてください。全てがささいで小さなものにしか見えないはずです。
私たちの過去の経験も同じです。ささいで小さなことでしかないのです。
皆さん一度、瞑想しながら宇宙に飛び立つ自分の姿を想像してみてください。未知との遭遇ではなく新しい私自身との遭遇です。
どうもご清聴ありがとうございました。